助言は、占いと少し似ていると思う。
よく当たるか外れるか、寄り添うものか、脅かす口調か。統計学的なもんですよってところとか。頼まれてもないのに口出しすることは、通りすがりに「あなたよくない影が見えますね」なんて言いがかる占い師みたいだ。何度、こんな似非鑑定結果を堂々と口にしたり、されたりしたものだろう。
先行き見通しの立たない時、前例を探す先がネットの海だと蝕まれがちだが、アート、小説、映画などは栄養になる。学問も、良い。アートなんかのように、過去を学び知っていた上で新しい価値を提示してみたい。
小説「82年生まれ、キム・ジヨン」と、上野千鶴子の「女ぎらい ニッポンのミソジニー」を立て続けに読んだ。
2016年に初刊が出た小説「キム・ジヨン」は、日本で言うと「山田花子」という記号みたいなもので、その世代の女性が被るあらゆる理不尽が淡々と時系列で描かれている。韓国が舞台だけれど、概ね日本の状況と似ていて、小説の締めくくりは寒気すらするが、現実の世界に続きを託されたような希望の感覚もある。「いくら良い人でも、育児の問題を抱えた女性スタッフはいろいろと難しい。後任には未婚の人を探さなくては…。」
こういう事象をクリアに観察するために、「ミソジニー」という概念を知りたかった。ミソジニーは、女嫌い、女性軽視のこと。女からすると自己嫌悪ともとれる。「女好き」とされる男は、女嫌い、ミソジニーって説明は分かりやすい。(「女をモノにしたい」という表現など)
ミソジニーは女の中にも存在する。「男の価値は男に評価されることで決まるが、女の価値は男に評価されることで決まる」このことが、女同士だからと言って分かり合えるわけではないことを示している。
男は女に、娼婦と聖女の両方を求めるという。ミソジニーは女性軽視と女性崇拝の両面があるようだ。聖女というのは、母なる存在で、男の出自でもある「母」を蔑視することは、自らを否定することにつながるから崇拝する。女は両方の役割を被ることで、生きづらさが生ずる。母なる存在は、男の評価で崇められているから、家庭内で母と娘の間に、母性を盾にした分かり合えなさが生まれるんだろう。
場合によっては読後感の悪いこの本の中で、希望を感じる一文を抜粋。「『女』という強制されたカテゴリーを、選択に変えるーそのなかに、『解放』の鍵はあるだろう。」
両方ともお薦めします。

- 作者: 上野千鶴子
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2010/10/06
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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