もめのめも書き

日常のエッセイ、仕事の記録など。

そろそろ小説を書こうと思う。36歳はじまりの日、宣言。

36歳を迎えました。

 

そろそろ、小説を書いてみようと思っています。

安定してきた頃に、面倒くさい方へと、ほふく前進で歩んでしまう癖。

面倒くさい道すがら見てきた景色の断片を、体外に放出するために。

書きたいテーマやフレーズはたくさん。

死ぬほどキツくって、身から出てきた言葉メモって、

「ああ、でも、この景色見れたのは良かったわ」って思って、

夜を越える日々もありました。

 

小説にすることを

ずーっと、何年も、何人かの人に勧められたりしながら、出来てなかった。

走り書きの断片を、編み直すのはタフな作業だから。

併走してくれる編集者のパートナーが欲しいです。(きっと女の人が良い)

一人だと沼にハマって、書ききれない。

  

「泥々で体当たりで生傷だらけの不器用なもめの目を通して見えた景色が、

ありきたりという意味ではなく、どこかの誰かの女の子の見た景色、

今見ている景色につながってて、

答えの出せなかった何かの自分の答えに近づいたり、

自分のままでは捉えきれなかった感情、

自分の断片が掴み取れそうな感じがある」

わたしのストーリーに耳をよく傾けてくれる年上の女の友人が、そう言ってくれた。

だから、自分以外の誰かの、キツイ夜を越えるお供になる可能性もあるんかもって。

 

 

 

まずは、宣言から。

お守りのように、先に短編集の名前と、ロゴが完成した。

モチーフは、わたしと共通点がある「ニホンアナグマ」だそう。

 

見た目とは裏腹に性格は獰猛/好奇心は旺盛/勝ち目のない戦いには、死んだふり/

 さらにはメスの子ども(娘)と同居するという共通点も…。笑

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 完全に自分を鼓舞するためのお守りです。

でもこれつくるにあたって、人とコミュニケーションとったことで

何を書きたいかは整理されてきました。

 

さて、さて36歳はじめます!!

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 AD&Design:細川夏樹

神戸拠点に活躍するグラフィックデザイナー

高校の同級生です


illustration:Amiさん(オランダ在住)

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対岸の彼女。

「対岸に立っている」と感じることがしばしばある。

小説のタイトルを、ぼーっと眺めていると、「あ、あの『対岸』のことが書いているのか」と気づき、読んでみることにした。

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

 

産む・産まない、結婚する・しない、働く・働かない。

この間を流れる川は、深い。向こう岸は、遠い。

私自身は、急に自分自身が対岸に立っていることがあって、

向こう岸から、一方的に投げかけていた自分の言動を省みる経験を何度かした。

 

女同士の隔たりと分かり合えなさは、学生時代から地続きである。

大人になると、隔たる要素は増える。しかし、学生時代と変わって、諸問題を生活に紛れさせていくことも出来る。

そんなことを小説では描いている。

 

働いていた岸から、結婚する岸へ、産み育てる岸へ、そしてまた働く岸へ。

それぞれの渡り方でずれていく感覚。

 

学生時代、スクールカーストによるグルーピングで生まれていた、教室の諸島。

あの時の変わらないことが、大人でもあるじゃないかと気づいた時、「なぜ私たちは年齢を重ねるのか」と問いかけてみたくなる。

何度目かの問いかけで、主人公は気付いた。

「なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げ込んでドアを閉めるためじゃない、

また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。」

 

 

小説を読み終わって、対岸の主人公2人は、35歳だったことに気付いた。初版は2007年だけど、今、読めたことが嬉しい。

以前、山内マリコさんの「私たちよくやっている」に収録されている「How old are you?」を読んだ時、主人公は34歳で、私も34歳だった。

 

小説を読み、他の同い年の女の人生を体験できるのが、嬉しい。

対岸の彼女。

「対岸に立っている」と感じることがしばしばある。

小説のタイトルを、ぼーっと眺めていると、「あ、あの『対岸』のことが書いているのか」と気づき、読んでみることにした。

 

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

 

 

 

産む・産まない、結婚する・しない、働く・働かない。

この間を流れる川は、深い。向こう岸は、遠い。

私自身は、急に自分自身が対岸に立っていることがあって、

向こう岸から、一方的に投げかけていた自分の言動を省みる経験を何度かした。

 

女同士の隔たりと分かり合えなさは、学生時代から地続きである。

大人になると、隔たる要素は増える。しかし、学生時代と変わって、諸問題を生活に紛れさせていくことも出来る。

そんなことを小説では描いている。

 

働いていた岸から、結婚する岸へ、産み育てる岸へ、そしてまた働く岸へ。

それぞれの渡り方でずれていく感覚。

 

学生時代、スクールカーストによるグルーピングで生まれていた、教室の諸島。

あの時の変わらないことが、大人でもあるじゃないかと気づいた時、「なぜ私たちは年齢を重ねるのか」と問いかけてみたくなる。

何度目かの問いかけで、主人公は気付いた。

「なぜ私たち年齢を重ねるのか。生活に逃げ込んでドアを閉めるためじゃない、

また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。」

 

 

小説を読み終わって、対岸の主人公2人は、35歳だったことに気付いた。

初版は2014年だけど、今、読めたことが嬉しい。

以前、山内マリコさんの「私たちよくやっている」に収録されている「How old are you?」を読んだ時、

主人公は34歳で、私も34歳だった。

 

小説を読み、他の同い年の女の人生を体験できるのが、嬉しい。

B面の人生。

子どもの言動への適切な応対というのは、難しい。バランス感覚と瞬発力の鍛錬。


子どもの存在が日常化すると、応対はパターン化する。かつ、自分に余裕がないと、受け流す、 もしくは押さえ込む手法をとりがちだ。

 


本を読んだ。著者は、小学生男児2名と暮らす彼氏との出会いをきっかけに、 子どもたちとの関わり合い方を試行錯誤している。著者は、 血の繋がりに興味がない自覚があるからこそか、「男3人がデフォルト状態の暮らしを変容させて良いものか」「 今、母親になろうとしていなかったか」などと、 一つ一つ自分の振る舞いと、その際の感覚を検証していく。

 

 


ぎくりとしたのは、息子に対して「ママにチューして」 などと発する、母親が息子を私物化したような行為への指摘。血が繋がっていたら鈍感でいていいかもしれない行為。子どもであれ、彼氏であれ、他者を一個人と捉えて接する著者の視点を通じて、ハッとする。

 

 

 

この著者の本は、以前にも読んだ。文章がとても面白い。両方ともエッセイなのか私小説なのか、赤裸々だ。 書店員ということで、 人生課題への参考書籍を紹介していて、それも楽しい。

 

 

人生にゴールってないけど、設定した課題に決着、もしくは一区切りつけられた時に、 こういう文章って書けるんだろうか。成功体験というA面みたいな話は、進行形で書けるだろうけど、B面みたいな話においては。 私もテーマ設定して、赤裸々に書いたら、結構書き甲斐あるB面人生歩んでると思うんだけど。書ける「決着」のタイミングって一体どんな時なんだ。

 

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適切な距離。

このところ、適切な距離について考える。


生きる上で大切なものは、手の届く距離に置いてなければ、道がふさがれ、届かなくなるかもしれない。


濃厚なほどに近づき過ぎると、苦しめ合うかもしれない。


仕事との距離。

愛する者どもの距離。


近いと有難い、

近過ぎると鬱陶しい

親と子の距離のような。

 


いちばんにうつくしいとも言える、

青に浮かぶ桜色の季節が曇天で。

 


個の想像力と、創造力のあつまりで、

分厚い雲を晴らすことはできるのかしら。

 


くだらないユーモア混じりの雑談をしていたい。誰かと、適切な距離で。

 

 

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定時運行の今日と。

定時運行。同じ電車に乗り、同じ電車で帰り、カレンダー通りに休む。このリズムのためか、遠距離通勤、意外と楽。

 


会社で働き始め、あだ名でも呼ばれるが、当然名字でも呼ばれる。何回か名字変わった経験から、名字は自分に属してない、便宜的に割り振られた記号みたいなもんだと思ってる。遠い存在。だからと言って抵抗までしない。

 


2年前は、名字にこだわって抗った。どうでも良くなったのは、その時抗い、正位置に戻ったからかもしれない。変化するもんだし、と知ったことも。

 

〔エッセイ〕名前の変え方。 - もめのめも書き

 

人生を電車に例えると、逆走している感がある。一回派手に脱輪して自由に走り続けていた。レールの上の満員電車から羨まれることを楽しんでいた。なのに、もう一度レールに戻ってみて、そして逆走している。

 


フォームを知らない走り方は、多分変だと思う。だけどあまり気にならない。行き着く先も、あまり気にならない。ただただ、今日は定時運行。明日も、多分。

 

今、走る景色は、見たことなくて、とてもユニークだよ。

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約束が出来ない。

「無事にこの日を迎えられた。」

 

誰かと何かの約束をする時は、毎度祈るような気持ちで、気合いを入れる。その日を迎えることが出来たら、それだけでほとんど予定が遂行されたみたいに安堵する。

 


忙しい友人と仕事の休みを調整して旅行の予定を立てるとか、遠距離の恋人と月に一度だけ会う約束をしているとか、子どもの預け先を手配してママ友で久々に羽を伸ばすとか、気合いを入れて担当したイベント開催日とか。ケースは様々、各々あるだろう。

 


細心の注意を払っても、どうにもならない気配が、あちらこちらに漂っている。

 


祈りに加え、諦められる準備も少しだけ、心の片隅に、忍ばすようになった。

 


約束なんかしなくても手を伸ばせばあるように、大切なものをなるべくひとつの場所に納め、耕し、徒歩圏内の会話で、食料も幸せも手に入れることが出来ていたあの頃の私が、勝ち組の顔してこちらを向き、嘲笑ってますか。

 


すっぽり納まり、まっとうな姿で在れる日を死ぬまでには、と未だ憧れ直すけど、歪な人生の狭間で、生まれ出づる美の存在を信じて、鼓舞して、踏ん張りたい。つり革を掴むのをやや抵抗して、足の裏と腹の力で支え、電車に揺られている今のように。

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