もめのめも書き

日常のエッセイ、仕事の記録など。

B面の人生。

子どもの言動への適切な応対というのは、難しい。バランス感覚と瞬発力の鍛錬。


子どもの存在が日常化すると、応対はパターン化する。かつ、自分に余裕がないと、受け流す、 もしくは押さえ込む手法をとりがちだ。

 


本を読んだ。著者は、小学生男児2名と暮らす彼氏との出会いをきっかけに、 子どもたちとの関わり合い方を試行錯誤している。著者は、 血の繋がりに興味がない自覚があるからこそか、「男3人がデフォルト状態の暮らしを変容させて良いものか」「 今、母親になろうとしていなかったか」などと、 一つ一つ自分の振る舞いと、その際の感覚を検証していく。

 

 


ぎくりとしたのは、息子に対して「ママにチューして」 などと発する、母親が息子を私物化したような行為への指摘。血が繋がっていたら鈍感でいていいかもしれない行為。子どもであれ、彼氏であれ、他者を一個人と捉えて接する著者の視点を通じて、ハッとする。

 

 

 

この著者の本は、以前にも読んだ。文章がとても面白い。両方ともエッセイなのか私小説なのか、赤裸々だ。 書店員ということで、 人生課題への参考書籍を紹介していて、それも楽しい。

 

 

人生にゴールってないけど、設定した課題に決着、もしくは一区切りつけられた時に、 こういう文章って書けるんだろうか。成功体験というA面みたいな話は、進行形で書けるだろうけど、B面みたいな話においては。 私もテーマ設定して、赤裸々に書いたら、結構書き甲斐あるB面人生歩んでると思うんだけど。書ける「決着」のタイミングって一体どんな時なんだ。

 

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適切な距離。

このところ、適切な距離について考える。


生きる上で大切なものは、手の届く距離に置いてなければ、道がふさがれ、届かなくなるかもしれない。


濃厚なほどに近づき過ぎると、苦しめ合うかもしれない。


仕事との距離。

愛する者どもの距離。


近いと有難い、

近過ぎると鬱陶しい

親と子の距離のような。

 


いちばんにうつくしいとも言える、

青に浮かぶ桜色の季節が曇天で。

 


個の想像力と、創造力のあつまりで、

分厚い雲を晴らすことはできるのかしら。

 


くだらないユーモア混じりの雑談をしていたい。誰かと、適切な距離で。

 

 

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定時運行の今日と。

定時運行。同じ電車に乗り、同じ電車で帰り、カレンダー通りに休む。このリズムのためか、遠距離通勤、意外と楽。

 


会社で働き始め、あだ名でも呼ばれるが、当然名字でも呼ばれる。何回か名字変わった経験から、名字は自分に属してない、便宜的に割り振られた記号みたいなもんだと思ってる。遠い存在。だからと言って抵抗までしない。

 


2年前は、名字にこだわって抗った。どうでも良くなったのは、その時抗い、正位置に戻ったからかもしれない。変化するもんだし、と知ったことも。

 

〔エッセイ〕名前の変え方。 - もめのめも書き

 

人生を電車に例えると、逆走している感がある。一回派手に脱輪して自由に走り続けていた。レールの上の満員電車から羨まれることを楽しんでいた。なのに、もう一度レールに戻ってみて、そして逆走している。

 


フォームを知らない走り方は、多分変だと思う。だけどあまり気にならない。行き着く先も、あまり気にならない。ただただ、今日は定時運行。明日も、多分。

 

今、走る景色は、見たことなくて、とてもユニークだよ。

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約束が出来ない。

「無事にこの日を迎えられた。」

 

誰かと何かの約束をする時は、毎度祈るような気持ちで、気合いを入れる。その日を迎えることが出来たら、それだけでほとんど予定が遂行されたみたいに安堵する。

 


忙しい友人と仕事の休みを調整して旅行の予定を立てるとか、遠距離の恋人と月に一度だけ会う約束をしているとか、子どもの預け先を手配してママ友で久々に羽を伸ばすとか、気合いを入れて担当したイベント開催日とか。ケースは様々、各々あるだろう。

 


細心の注意を払っても、どうにもならない気配が、あちらこちらに漂っている。

 


祈りに加え、諦められる準備も少しだけ、心の片隅に、忍ばすようになった。

 


約束なんかしなくても手を伸ばせばあるように、大切なものをなるべくひとつの場所に納め、耕し、徒歩圏内の会話で、食料も幸せも手に入れることが出来ていたあの頃の私が、勝ち組の顔してこちらを向き、嘲笑ってますか。

 


すっぽり納まり、まっとうな姿で在れる日を死ぬまでには、と未だ憧れ直すけど、歪な人生の狭間で、生まれ出づる美の存在を信じて、鼓舞して、踏ん張りたい。つり革を掴むのをやや抵抗して、足の裏と腹の力で支え、電車に揺られている今のように。

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味噌づくりの季節。

冬の風物詩、味噌づくり。通算、何回つくっただろうか。自分だけでやった経験は一度もなく、毎度誰かとやってきた。近所のお母さん、友達など。

 

味噌づくりが大変なのは、大量につくる時、豆を煮る作業とそのための道具や場所を確保することと記憶している。ある年は、近所の農家のお母さんに味噌パートナーになってもらって、陽がまだ昇りきらない暗い時間から、どでかい釜に薪をくべて豆を炊いた。そして街に暮らしている友人らを招いてイベント化したけれど、豆を炊いてからの作業は、それほど苦労しなかった。

 

 

今年は、まさに、客人として、炊かれた豆を目前にした。屋久島の宿の料理人もしていた「友来り(ともきたり)」のユカさんが定期的開いている料理教室に空きが出たと伺い、タイミングよく混ぜていただいた。また今年も、おんぶに抱っこ方式で味噌づくりにありつけた。もちろん味噌づくりなど料理そのものにも関心はあるが、なによりこういう場をきっかけに、人と寄り集まり、雑談をするのが大好きだ。大好きなユカさんの野菜の漬物や握り飯なども食べられて、心身満たされた。

 

 

今日はジップロックコンテナのLサイズに収まる量をつくった。ボサッと依存しながらとは言え何回も経験してきたのと、コンパクトなサイズ感、ユカさんの的確な段取りのもとのレクチャーのおかげで、ようやく味噌づくりの全貌が理解できたかも。遅っ。

 

味噌が美味しくなるのは、約一年先。タイムカプセルみたいにジップロックコンテナの裏に、手紙でも書こうかな。2021年のわたしへ、って。

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意志ある選択の積み重ね。

転職をした。初日から数日、通勤までのお供は、「おとなの進路教室。」(山田ズーニー)。新たな日々へのはなむけに、と友人からもらったもの。これが今のタイミングにすごく良かった。働くということにまつわる様々な問いに、自分の考えを引き出すきっかけをくれるようなコラム集。

 

 

私にとって今回の転職は、人生の忘れ物を取りに行くような感覚がある。コラムの中で、「お金、恋愛など、経験さえすれば『こんなものか』と幻想が取れる」と書いていた。私の場合、会社で働くということを十分にしてこなかった。逆に、田舎移住、結婚、起業(私が主導したわけではないけど)あたりは、経験済み。

 

自分にとっては、真新しい場。あたかも私は、糊の効いた新品の蚊帳ふきん。しかしまあ、35年生きてきた中で、糊が取れるまではぎこちないが、時期に馴染むことを経験として知っている。何度も、何度も、何度も…懸命に調えた場を住み替えるという経験は、それはそれは身に堪えたけど、何度もすれば血となり肉となっている。

 

だけど、振り返ってみたら「転職」というより「初めての就職」というぐらい、あまりにもフリーダムに生きてきたから、ズーニー氏の本が、チューニングの手助けとなった。「仕事は勉強ではない」という話や、「後ろに回らず打って出ろ、新人」という話が特に。

 

今回の転職という選択の裏に、娘を育てるという選択があった。紆余曲折いろいろあった。それに伴う仕事の再選択。再選択をする上で、改めて自分がなぜ今、バツイチなんだっけ、と問うた。自分の人生を生きたかったのではないのか、と。結果、私の2つの選択は、乖離した。働く場として私を引き受けてくれた会社は、住まいから遠方。2つの選択を、身一つでは実現できず、母の全面協力でスタートを切った。

 

別の長い付き合いの友人に、近況を結論だけ簡潔に伝えると、「いろんな選択の積み重ねがあったと想像できるわ」とコメントをくれた。ズーニー氏の本に、「意志ある選択が人生をつくる」とあった。先がどうなるとか、そういうことが重要ではなく、「考える」ことが「意志」となり、それが「人生」をつくっていくと。

 

 

他にも、響いたトピックを挙げておく。

自己実現難民探すのは「自分」ではなく、社会に出る「道」という話

・「33歳病」は自分が突き抜けていく胎動という話

・何者になりたくてもがいているトホホな時期に、人生で一番友達が多くできた話

興味ある人は、ぜひ読んでみて。

 

おとなの進路教室。 (河出文庫)

おとなの進路教室。 (河出文庫)

 

 

NYへ。

年末年始の休みが長くあったので、旅へ行くことにした。ひとつの思考に没頭し易い私は、行動が留まってしまう傾向にある。それゆえ、わたしとって旅(特に海外)はどちらかと言えば、快楽より修行の色が濃い。

 


決めた行き先はNY。国内にしても「美術館へ行きたい」が1人でも能動的になる動機。現代美術の宝庫のNYは、いつか行ってみたいとうっすら思っていた。

 


1人旅の予定だったが、休みが重なった友人が、わたしも行こうかなと言い出した。料理家の彼女は、これから再始動する自分の店のインスピレーションを求めて旅先を探していたところであった。旅は道連れ。1人ではあり得なかった出会いもあった。

 


ブルックリンのアパートに滞在し、それぞれの行きたい場所に各自行ったり、共に行ったり。

 


旅立つ直前、知人に勧められたオフブロードウェイ、「Sleep  No More」は行ってよかった。(興味ある人は詳細をぜひググッてください)鑑賞のコツが分かってからは、走って、目撃し、エキサイティング。単純に、俳優が目の前で全裸になるという理由だけでも、同じものが日本で公演されることはなさそうだから足を運んだ価値あり。

 


時差ボケもあり、眠りにつけなかった夜に、読みかけの原田マハの「楽園のカンヴァス」を読み切って、MoMAに向かった。題材になっているルソーの「夢」を目の前にした時は、ひとつの絵画で史実に基づきつつフィクションを加えて創作する原田マハすごい!ってなった。MoMAは、他にも名作がゴロゴロしていてお腹いっぱい。

 


もっとも楽しかったのが、現代美術家の野村康生さんのアトリエに訪問したこと。(http://yasuonomura.com/index.html)旅した友人の友人で、滞在中に思いたって連絡して会いに行くことになった。これぞ旅は道連れ。友人さすがNYに出てきて現代美術の世界で勝負してるだけあって、この世界に対して幅広く勉強されてるし自分の考えを持っている。私たちの滞在してるアパートで夜な夜な話した。数年、自分のことで必死だったから、世の中に対しての意識を絶っていたけど、改めて接続し直そうと思った。そうつぶやくと美術家の彼も、料理家の友人も、「いやいや結局自分を幸せにしないと」と笑って否定した。そうだ、私も確かにずっとそんなことを言っていた。世界の幸せを祈るなら、まず足元から。そんなこと言うのも憚られてたが、改めて。外へと接続しながら走り出す準備はもう整った気がする、なあ。