もめのめも書き

日常のエッセイ、仕事の記録など。

愛はある。

自分が幸せでいることと、世界で悲劇が起こっていることの間に生じる罪悪感。世界で戦争が起こり、日本で天災が起こり、社会で殺人があり、個人で不妊など様々ある。当事者の苦しみと、当事者じゃない苦しみ。「この世界には愛が存在するんだ」と叫び続けることで、苦しみを払拭してくれる、完璧な小説だった。

 


登場人物が、アイとかユウとかいう名前で、ある種記号化されていることで、これは誰かの物語になる。

 


小説を読みおわったタイミングで、たまたま星野源の「ドラえもん」を歌詞表示つきで聴いた。この歌を聞いて胸を駆け抜ける普遍的な強い愛のメッセージと、小説の読後感はなんだか似ていた。完全に私の感覚だけど。

 


変わらない世の中に苦しむ、愛のある人にぜひお勧めしたい一冊。

 

f:id:momemome:20191117213218j:image

下町芸術祭、野生「能」。

美術家、森村泰昌さんのパフォーマンス「野生『能』」を観た。

 

大阪の釜ヶ崎、京都の須原、神戸の福原という下町が題材。能、漫才、演劇、映像、小説などいくつもの形式を使用したり、引用していて、内容は小難しすぎずも、鑑賞者に想像の余地を残していた。

 

まあ、とにかく面白かった。

 

途中、森村さんの十八番である「変装」で、下町新党党首、町下路地蔵が、「ロジスティクス路地スティクス」と弁を奮う。

 

便利さのため路地を排除し直線を結ぶのが「ロジスティクス」で、路地に迷い込み、途中もはや目的がなんだったかさえ見失いながら彷徨い続ける「路地スティクス」。(ああ、路地スティクスな表現や人生を謳歌したい、と、思った。)

 

 

「美しい」と「きれい」は違う。坂口安吾の「日本文化私観」に「やむべからざる実質がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ」とある。

 

 

「良いこと」志して、きれいにしちゃう。何もかもが、どことなく似た雰囲気、似たデザインに塗り替えられていく。きれいはロジスティクス的な取り繕いで、美しさは路地スティクスのセンス。

 

「きれい」から外れると炎上するから、ますます「きれい」に取り繕い、表現は「不自由」になっていく。「美しい」もの、味わう力を養う努力していきたい。

f:id:momemome:20191110222342j:plain

 

横尾さんとバスキア。

地元に開館してから随分経つのに、思い立ってようやく初めて訪れた横尾忠則現代美術館。「自我自損展」という言葉に惹かれたのと、横尾忠則自身がキュレーションしたというのにも興味があった。

 

 

思い立つ、というのは見えざる何かに後押しされていること、きっとあって、物事がうまく流れる。「無料開放日」と書いていて、一銭も払わずに、混雑もせずに、優雅な鑑賞日和。「話題」の展覧会、森美術館バスキアを見るには、2100円もして、行列もした。(言っておくが、行って良かった。)2100円と言えば、直島の地中美術館と同じだけで、不思議とこちらは高いと感じず何度か行っている。同じく瀬戸内にある豊島の横尾館は、本来が510円だが、「島民」だったことがあるので、その時に無料で何度か行った。そういう意味においては、今のところ、横尾さんには縁がある。

 

バスキアみたいに若くして亡くなり伝説となっているアーティストもいれば、80歳オーバーで、生きながらにして伝説となりつつある横尾さんみたいなアーティストもいる。横尾さんがグラフィックデザイナーから画家への転身を宣言したのは、45歳の時に観たMoMAでのピカソ展であり、ピカソがそうであったように、横尾さんも過去を自ら否定するようどんどん変化している。分かりやすく、過去の自身のポスターデザインの上からペインティングしている作品もあった。

 

既存社会の規範と常識からはみ出しにくい昨今、一見はみだしてつくりあげた、「新しい世界の自分」という枠に結局おさまってしまう恐怖。ええことやったったで、頑張ったで感の中に浸ってしまって、自分や世界のそれ以上の変化・可能性を見限って、実は閉ざしている。それらに叱咤激励して打破してくれるのがアートという存在。バスキアは短命の中で遺してくれていて、横尾さんは、老いによる自由さの獲得を示してくれた。

 

f:id:momemome:20191108160414j:plain

 

 

ほふく前進の日常。

接客業中にみる、向こう側。その人は馴染んでいない感じがあった。子育てに。大きなベビーカーを不器用に動かして、赤子をあやしながら食事を進める。口角の上がり方に不自然さはない。少し観察した後、別の業務をこなし、親子のことなど忘れていた頃、気配を感じた。食事を済まして席を立った母親が、立ち止まって周囲を気にしていた。声をかけると「汚してしまって」と困り顔で伝えてきたので、子どもがいるとよくあることだと思い、気にしないように伝え返した。席を確認しにいくと、ベビー用の煎餅が塊で数個落ちていた。想像していた小さな食べかすや、手拭きの山とは異なった。気になれば容易く処理できる程度。少なくとも店員に気づかれるまで立ちすくむより簡単な作業。

(と、測る価値観もある)。

 

母子と再びレジにて対面した際、わずかに騒いだ赤子に対し、女性は困った顔で「ああ、本当にうるさいなあ」と小さく漏らした。言い添えておくけれど、こういうのは日常でよくあることだと思う。女性がなぜか、私にふいに問うた。「お子さんいらっしゃるんですか?」。「はい」と応答すると、「よく育てましたね!」と、本当に感心したような様子で言った。よく、は育てていない。「大変ですよね、頑張ってください。」と、果たして正解だったかどうか、自分で引っ掛かるような言葉で見送った。

 

 

"よくしている、よく生きている、よく暮らしている、よく働いている。"

 

よくなんて、なくてよい。先、何かしらまだ人生が続くようなら、目の前、ほふく前進していけば、道が出来ているんだろう。

 

不器用さを見兼ねて助言をされたとて、ほふく前進タイプは、聞く耳持たない。ガラスの破片で腹に切り傷付けて、「確かにこの道は障害が多かった」と確認したいし、体力なくなってへばってから、「やっぱりあの時肩車してもらったらよかったんだ」と振り返りたい。

 

それが、「よくやってる」という言葉の意だと、わたしの中で、更新する。

f:id:momemome:20191101232922j:plain

 

月の満ち欠け

自分があまり読まないタイプの小説を読んだ。佐藤正午著「月の満ち欠け」。駅前の本屋の一等地に陳列されていて、なんとなく読みやすそうだな、と思って手に取った。帯に「熟練の技」と書いていて、解説の伊坂幸太郎は、それを「熟練だからでなくずっと昔から小説センスの塊」って否定しているのだけど。読んでみて、「自分が書きたい想いを書くというより、読み物として面白い小説を書く、技術がある人だなあ」という感想を、実際に私も持った。いつも私が手に取るものは、不思議と自分と状況や心境の多くが重なる物語にあたるので、物語と距離感がやたらと近い。しかし今回は、一定の距離を持って「物語」として読んでいた。途中、間に挟まっていた著者によるメッセージ、「自分は60代だがどっかの兄ちゃんが書いたと思って面白がって欲しい」などの趣旨を読んでしまったので、「60代のベテランなんだ」と逆に意識してしまったせいもある。

 

生まれ変わり・出会いをテーマに、何人もの登場人物の関係性を複雑に描き、徐々に紐解いていて、最後まで飽きさせない。どんどん面白くなってきて、小説がどんどん距離を詰めてきて、遂に、自分と重ねてしまった。これは、私の癖。

 

 

自身に起こる解せぬ因縁みたいな出会いを、小説に重ねて「もしかしてあの生まれ変わりでは」などという考えが落ちてきた。それを契機に、妄想で補足して自分のストーリを作ってみると、なんだかそうとしか思えなくなってきた。小説の登場人物のように「いやいや、そんなアホな」とすぐに現実に戻るのだけど、妄想は、人生の

課題にインスピレーションを与え、悪くないと思う。

 

イラストは小説のキーとなる「瑠璃」という女の妄想イメージ。

f:id:momemome:20191031211125j:plain

 

 

岩波文庫的 月の満ち欠け

岩波文庫的 月の満ち欠け

 

 

 

嗜好の話。

一度スマホで打った文章を、手元にあって使っていなかった原稿用紙と、比較的よく使う万年筆を取り出して書き直した。丁寧でもなく、流れるように急いで書き写したけれど、手が疲れた。時折垂れ流している駄文が生身のものとなって出現し、留まったような印象。ただ、やってみたかっただけ。イラスト、人間の横に牛を描いたけど、色適当に塗りすぎて失敗。削除。

f:id:momemome:20191028203050j:plain

f:id:momemome:20191028203156j:plain

f:id:momemome:20191028203506j:plain



 

 



35歳に寄せて

「お母さん今何歳?」

「35歳」  

  

  

それが自分の母親の年齢を意識した最初の記憶。計算すると、その時私は8歳。青のクレヨンで描いたワンピースを着た母の似顔絵の横に、35さいと書き添えた記憶が、ぼんやりと伴う。  

  

  

当時の母の年齢を迎え、あの頃の母の内心を想像する。「お母さん」という存在にしか見えなかったその心の内に、消化出来ない「女」を秘め殺していたなんてことはなかったのだろうか。  

  

  

35歳。分かれ道、境い目。

産むの産まないの。続けるの変えるの。選ぶ/選ばれる/選ばれない/選ばざるを得ない。現実に抗おうとする程に、現実を知る。女にとっては、そんな年頃なんじゃないだろうか。  

  

  

ゼロからやり直しは効かないし、魔法使いは登場しません。若さ、可愛さ通用しません。産んだ、育てた武器にしても賞味期限すぐきます。男以上にシビアです。35年の地層を見つめ直して、ないない思ったけどこんなにあったよと、自分で自信持つしかないです。 

 

  

それら存じた上で、新しく、皮剥いで、お迎えしましょう。35歳のわたし、お出ましです。  

  

f:id:momemome:20190906001112j:image